[TOP浮世絵]「飛鳥山花見之図」歌川広重(東京都立中央図書館 蔵)
桜の名所として知られる北区・飛鳥山公園。
春になれば大勢の花見客で賑わうこの場所を、あえて「桜が咲く前」に歩く風変わりなツアーがあります。
東京都立大学オープンユニバーシティの生涯学習講座「農業視点で見る飛鳥山」散策ツアーです。
ガイドを務めるのは、育種家であり『日本の品種はすごい』などの著書で知られる竹下大学(たけした・だいがく)さん。
募集開始とともに即満席になるというこの人気講座(座学+散策)に同行し、東京の街に隠された「農」のアイデンティティを探りました。
[写真]JR京浜東北線王子駅に15名ほどが集合してツアースタート。ガイドを務める竹下大学さん(右)
知的好奇心を揺さぶる「竹下流」ライブツアー
この講座の魅力は、徹底した「ライブ感」と遊び心にあります。
事前学習の座学では、浮世絵に描かれた風景や当時の風俗事情を読み解き、江戸から明治へと移り変わる街の姿を視覚的にインプットします。そして迎えた実踏当日、竹下さんの手には参加者の観察力を試す「謎解き」の仕掛けが用意されていました。
「飛鳥山公園の斜面に謎の狛犬がいるのですが、見つけられますか?」
「石神井川の源流はどこでしょう? ……実は、小金井カントリークラブなんです」
[写真]石神井川沿いは、かつては行楽地として料亭などが立ち並び賑わったという
そんなクイズの答えを探しながら歩くうちに、参加者の視線は自然と地形の起伏や石碑の細部へと向いていきます。
単に歴史の解説を聞くのではなく、目の前の風景から自ら情報を「読み解く」面白味。
それは、大人の知的好奇心を存分に満たしてくれる知的な探検の時間でした。
崖と水がデザインした「産業の地層」
王子駅から飛鳥山へと向かう道すがら、竹下さんがまず注目を促したのは、京浜東北線の線路沿いに切り立った崖、すなわち「崖線(がいせん)」です 。ここは武蔵野台地の東端にあたり、縄文時代などの海面が高かった時期には、この崖の下がまさに「東京湾の波打ち際」でした。
この地形が、後の農業の運命を決定づけます。台地上を覆うのは、水はけが良すぎるために稲作には向かない「関東ローム層」の火山灰土です 。水不足という地形的宿命を克服するために作られたのが、五代将軍・徳川綱吉の時代に開削された「千川上水(せんかわじょうすい)」でした 。
「台地の上は水に乏しかったため、江戸時代には高度な畑作が発達しました。一方で、台地の下には千川上水が落とされ、豊かな水田が広がっていたんです」
[浮世絵]「名所江戸百景 王子音無川堰タイ世俗大瀧ト唱」 歌川広重(東京都立中央図書館 蔵)
明治に入ると、この豊富な水は多目的に転用されるようになります。
渋沢栄一が関わった抄紙会社(後の王子製紙)の動力源や、幕末の国防を支えた滝野川反射炉(大砲工場)の冷却水、さらには日本酒の品質向上を目指した「醸造試験所(現・独立行政法人 酒類総合研究所)」での酒造りへと、地域産業を支えるインフラへと姿を変えたのです。
飛鳥山周辺は、地形という「自然の資産」をエンジニアリングによって「産業の基盤」へと転換した、近代化の縮図そのものと言えるでしょう。
[写真]当時の醸造試験所の建物がそのまま残されている
徳川吉宗が「庶民のガス抜き」として整備した公園「飛鳥山」
飛鳥山が桜の名所になった背景には、八代将軍・徳川吉宗による壮大な都市計画がありました 。
吉宗は、享保の改革の一環として飛鳥山に約1,270本の桜を植え、庶民に開放しました。
[写真]飛鳥山公園
当時、花見の定番だった上野の寛永寺は格式が高く、飲食や喧騒は厳しく制限されていました。
これに対し、飛鳥山は「無礼講」が許される場所でした。
歌川広重の『名所江戸百景』などには、崖の上から「土器(かわらけ)投げ」を楽しむ人々の姿が描かれています 。これは垂直的な崖線という地形を活かした娯楽であり、日頃の過密都市でのストレスを解消する「ガス抜き」として機能していたのです 。
[浮世絵]「江戸自慢三十六興」 「飛鳥山投土器」」歌川国貞(東京都立中央図書館 蔵)
また、近隣の「染井(現在の駒込付近)」は、世界に誇る「園芸の町」として栄えました 。
ここで生まれたのが、現代の日本の春を象徴する桜「ソメイヨシノ(染井吉野)」です 。
「成長が早く、葉が出る前に一斉に花を咲かせるソメイヨシノは、接ぎ木というクローン繁殖技術によって全国へと広まっていきました」
今も飛鳥山周辺で植木市(現在の名称は「北区グリーンフェスタ」)が開かれているのは、かつてこの一帯が「江戸の園芸の発信地」となっていた歴史の名残なのです 。
[写真]徳川吉宗の石碑。飛鳥山のシンボルとして多くの浮世画に描かれている
忘れられた偉人・船津伝次平の情熱
ツアーが飛鳥山公園の片隅にある「船津翁碑(ふなつおうひ)」に差し掛かると、竹下さんの語りには一段と熱がこもります。
明治政府が西洋農法を導入しようとした際、西洋の理論ばかりを振りかざす学者と、現場で培った知恵を持つ百姓の間には大きな溝がありました 。その架け橋となったのが、群馬県出身の船津伝次平(ふなつ・でんじべい)です 。
「伝次平は西洋の農機具や理論を単に模倣するのではなく、日本の風土に合うように『翻訳』し、実用化することに尽力しました。約17年かけて47府県中45府県をめぐり、生産現場で直接指導をしたんですよ」
彼は駒場農学校(現在の東大農学部などの前身)の教官として招聘され、さらに北区西ヶ原に設立された国の「農事試験場」(現・農研機構)」の礎を築きました 。
その功績は今や一般には知る人も少ないですが、飛鳥山の石碑は、日本の近代農業を切り拓いた先駆者を慕い、全国から1,700名もの有志によって建立されたものです 。
かつての日本の食を支えようとした「老農」(主に明治時代の農業指導者)たちの誇りが、この碑には刻まれています。
[写真]このツアーで最も竹下さんが案内したかったという「船津翁碑」
ツアーの先へ:自ら歩く「種子屋街道」の記憶
ツアーは半日の行程で終了しますが、その後は参加者がそれぞれの関心に従って自由に散策を広げるのも醍醐味です。
解散後、講義で紹介された中山道沿いの「滝野川」へと足を延ばしました。
かつてこの一帯は「種子屋通り(種子屋街道)」と呼ばれ、全国へ野菜の種を供給する一大拠点でした 。関東ローム層の深い土壌は根菜類の栽培に適しており、ここで生まれた「滝野川ゴボウ」は、参勤交代の武士たちが種を国元へ持ち帰ったことで全国へ広まりました 。
現在、日本で流通しているゴボウの9割以上が、この滝野川ゴボウの系統であると言われています 。今も一軒残る種苗会社の前には、かつての賑わいを伝える地図や看板が展示され、通り沿いの大正大学には「種子地蔵(たねじぞう)」が静かに佇んでいます 。
品種豊かな農産物に支えられてきた日本の食文化を考えると、ここもまた、見逃せない「農業の聖地」なのです。
[写真]現在も残る種苗会社には、種屋街道の歩みが掲示されている
インタビュー:農業史は、最高の「隠し味」になる
散策後、ガイドの竹下大学さんに、都市農業という視点で街を歩く意義を改めて伺いました。
―― 「歩く」ことを重視しているのはなぜですか?
竹下:「宝探し気分が味わえるからですかね(笑)。東京はどこを歩いても『農』のネタが転がっている宝庫なんです。実地を歩き、地形の高低差を足裏で感じ、浮世絵と同じ角度で景色を眺めることで、歴史が立体的に浮かび上がります。参加者の皆さんが『こんな歴史があったなんて!』と驚く顔を見るのが一番の楽しみですね」
―― 「農業史」を知ることで、日常の景色はどう変わるのでしょうか?
竹下:「例えば、今日夕飯で食べるゴボウが、この滝野川の深い黒土から生まれた品種の子孫だと知っているだけで、ありがたみや美味しさが変わりませんか? 知識は最高の『調味料』なんです。東京の農業は、単なる食料供給だけでなく、近代化を種子や苗木、さらに技術から支えた文明の原動力でした。東京に住んでいる人に、その誇りを取り戻してほしいんです」
―― 今後はどのような展開を考えていますか?
竹下:「今はシニア層が中心ですが、今後は子育て世代にも伝えていきたいですね。飛鳥山には渋沢栄一の邸宅跡や醸造試験所跡地もあり、食と産業が密接に結びついています。この歴史の重層性を、東京の新しいアイデンティティとして語り継いでいきたいと思っています」
[写真]かつては田園風景が広がっていた飛鳥山からの眺望
取材後記
飛鳥山周辺を歩けば、そこには徳川吉宗の都市計画、染井や滝野川の植木、種子ビジネス、そして船津伝次平らの情熱が、今も地層のように積み重なっています。
竹下さんに手渡された「農業史」というレンズを通せば、いつもの散策道は、かつてないほど豊かで知的な歴史探検へと変わるはずです。
【次回の講座案内】
竹下大学さんの人気講座は、今後もエリアを変えて開催されます。東京の農業を多角的に学べる詳細は、以下の公式サイトをご確認ください。
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㈱農天気 代表取締役 NPO法人くにたち農園の会 前理事長
小野 淳/ATUSHI ONO
1974年生まれ。神奈川県横須賀市出身。TV番組ディレクターとして環境問題番組「素敵な宇宙船地球号」などを制作。
30歳で農業に転職、農業生産法人にて有機JAS農業や流通、貸農園の運営などに携わったのち2014年(株)農天気設立。
東京国立市のコミュニティ農園「くにたち はたけんぼ」「子育て古民家つちのこや」「ゲストハウスここたまや」などを拠点に忍者体験・畑婚活・食農観光など幅広い農サービスを提供。
2020年にはNPO法人として認定こども園「国立富士見台団地 風の子」を開設。
NHK「菜園ライフ」監修・実演
著書に「都市農業必携ガイド」(農文協)「新・いまこそ農業」「東京農業クリエイターズ」「食と農のプチ起業」(イカロス出版)





