東京はじつはナシの名産地
関東地方のナシ産地といえば、収穫量全国1位の千葉県、2位の茨城県、3位の栃木県を筆頭に、10位 埼玉県、14位 神奈川県、15位 群馬県と続きます。そして東京は23位(令和5年産)。これをそんなものかと思うか頑張っているなと思うかは、意見が分かれるところかもしれません。
でも東京は古くから、また現在でもナシの名産地のひとつなのです。とは言うものの、東京で生活していてナシ畑を見かけることはまずありません。
それではいったい東京のどこにナシ産地があるというのでしょうか?
(写真・上)特許庁から地域ブランドの認証を受けている「稲城の梨(登録商標)」
答えのひとつは稲城市です。
稲城市の場所はざっくり、東西に長い東京都の真ん中のくびれた部分の下側、多摩川の南側(右岸)に位置し、神奈川県と接しているあたりになります。
特産品として名の通った稲城のナシですけれども、ほとんど市場流通はしていません。知る人ぞ知る名産品あるいは幻のナシといった方が、稲城のナシの実情を表しているといえます。
稲城市では農業生産額のうち約6割を果樹が占めており、かなり減ったとはいうものの市内には74軒(令和6年9月現在)のナシ生産者がいます。住宅地の中にナシ園が点在する光景も、稲城市ならではでしょう。
もし稲城のナシを手に入れたければ、各生産者の直売所かJAの農産物直売所に行くのがオススメです。
8月から10月にかけてのシーズン中は、他県からわざわざ車で買いに来るナシ好きが稲城市に集まってくるほどなのです。
東京都民は1,400万人を超え、昼間人口は1,600万人以上になります。
巨大都市東京都生まれ東京育ちのオリジナル品種、ナシの「稲城」とブドウの「高尾」。
稲城市ではどちらも生産されていますが、同市における両品種の生産者は、双方合わせても100軒程度にすぎません。そんな希少品種の現状を知るべく、収穫シーズン真っ盛りの稲城市を訪問しました。
稲城のナシのはじまり
稲城でナシが初めて栽培されたのがいつかといえば、江戸時代前期の元禄時代。いまから約300年も前の話です。長沼村がその場所でした。この長沼の地名は、東長沼や稲城長沼として今もこの地に残っています。
品種は「淡雪」という、当時もっともおいしいと評判だった品種でした。
長沼がおいしいナシの産地として知られるようになったのは、稲城一帯の土壌のおかげです。太古から繰り返された多摩川の氾濫が作りだした沖積土壌は肥沃で、ナシの栽培にとても適していました。
稲城でナシが大規模に栽培されるようになったのは明治時代半ばから。多摩川下流の川崎で発見された「長十郎」や、千葉の松戸で発見された「二十世紀」などの登場とともに生産者が増え、一気に大産地となったのです。
ナシ生産者が恐れる天候被害に雹害があります。
雹によって果実が傷つけられてしまうと、経営が成り立たなくなってしまいます。ところがなぜか稲城のナシ生産者は雹を恐れていません。
多摩川の上昇気流のおかげで、稲城は雹害がない地域だとわかっているからです。
稲城のナシならではの一番の特徴は、何といっても「稲城」という全国でここでだけしか栽培されていない品種が、主力品種になっていること。
「稲城」は、東長沼の進藤益延氏が70年以上も前に育成した品種でありながら、いまだに稲城市の看板品種であり続けています。
いまも稲城ナシの最先端をいく「川清園」
川清園は、江戸時代から16代続くナシ農園です。
稲城でもっとも古いナシ園のひとつで、稲城のナシのいまがあるのは、川清園のおかげだといえる出来事がいくつもあったりします。
そこで稲城のナシの現状と川清園の取り組みについて知るために、川清園をめざしました。教えてくれたのは、父子である川島實さんと幹雄さんのおふたりです。
川島實さん(写真・左)と川島幹雄さん(写真・右)
「『稲城』を最初に試作したのはうちでね。育成者である進藤さんに穂木を5本もらって始めたんだ。『稲城』という品種名に決まる前は、『三笠』って名前だった。うちでいいナシが作れたのを見て、周りでも栽培したいと言い始めてね。増殖に用いた穂木もみんなうちの木から取ったんだ」(實さん)
いまや全国のナシ生産量の35%以上をも占める「幸水」を稲城で初めて試作したのも、實さんでした。
これだけではありません。赤ナシの「稲城」が突然変異を起こして青ナシに変化した「みのり」は、實さんが育成したオリジナル品種。「稲城」と「みのり」の詰め合わせセットは、川清園一番の人気商品になっているほどです。
赤ナシの「稲城」(写真・左側)と青ナシの「みのり」(写真・右側)
實さんは都立園芸高校を卒業後、すぐに家に入ってナシ生産に打ち込みました。
「とても大学にいける状況じゃなかったし、同級生の多くが進学する中、いち早く自分で育種に取り組めたのはよかったよ」(實さん)
實さんの最近の大成果としては、ナシの受配用の花粉を取るための品種の開発があります。日本のナシよりも早く花を咲かせ花粉がとれるこの品種は、實さんがネパールで採集した現地のナシがもとになっています。
「ナシの品種改良といったら、味とか収量とか耐病性とか。私より先にネパールに植物探索に行った人は何人もいたんだけどね。花粉を出す時期に目を向けた人が誰もいなかっただけのこと」(實さん)
實さんは、日本のナシ生産者を助けるためだけでなく、ネパールの役にも立つ形で花粉プロジェクトを進めています。
ネパール産の花粉樹
稲城市の果物の人気を支えているのはナシだけではありません。ブドウでも、ほぼこの土地でしか作られていないレア品種があります。その名も「高尾」。
東京都農業試験場(現・東京都農林総合研究センター)が「巨峰」を改良した黒ブドウです。黒ブドウでは一番おいしいともいわれる「高尾」の品種名は、高尾山にちなんでつけられました。
『高尾』の試作もうちが最初にやったんだ、と實さん。ちょうど幹雄さんが生まれた昭和49年だったそう。
「だから、僕と『高尾』は同い年なんです。当時の稲城ナシはまだ「長十郎」が主体で価格が安く、ナシで利益をあげるのが難しくなってしまっていたんです。ブドウの『高尾』を作りはじめたおかげで、経営が安定しました。でも今は逆になってしまって。単位面積あたりでは、ブドウよりもナシの方が儲かるんですよ。」(幹雄さん)
實さんによって始められた「高尾」の生産は、稲城市内40数軒からなる高尾ぶどう組合で続けられています。
それ以外に、10年続けたラズベリーの品種改良は失敗に終わってしまいましたが、その後取り組んだウメでは、種(核)が小さく果肉の部分が多い新品種の作出に成功します。
収量が多いうえに受粉の必要がなく1本で実をならせるという、理想的な性質をもつ品種です。
このウメに名前はつけられていませんが、何も宣伝しなくても売り切れてしまう川清園の看板商品のひとつです。
研究熱心な實さんの成果はこれだけではありません。昭和34年に試作を始めたカボスは、最近評判になって各方面から引っ張りだこ。
「カボスは絶対にいけると思って始めたんだけどね。まったく売れなかった。それが今頃人気になるんだから。カボスはちょっと早すぎたね。」(實さん)
稲城市の果樹のこれから
「『稲城』に限らず、私たちはナシを上手に作りさえすれば生活していけます。常にお客さんを待たせている状態ですから、売る心配をしないでよいのはとても恵まれていますね。ただその分、プレッシャーはとても大きいですけれど」(幹雄さん)
今年2024年は、稲城果実生産組合ができて140周年の記念の年だそう。
「稲城のナシがここまで多くの人に愛されるようになったのは『稲城』のおかげです。他の大産地と差別化できただけでなく、稲城のブランディングにとても役に立ちましたから。この『稲城』をよい形で次の世代に受け継いでいきたいですね」(幹雄さん)
農作物を生産する場合、何が有利に働き何が不利に働くかは、その土地土地によって大きく異なります。
東京での農業経営についてもきっと同じことがいえるのでしょう。
實さんの「タネは何でも播いてみたい」のひと言に、いまから都市農業に挑む者たちへの羨ましさが込められているように感じました。
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品種ナビゲーター、NPO法人スマート・テロワール協会顧問
竹下 大学/DAIGAKU TAKESHITA
東京都新宿区出身。千葉大学園芸学部卒業。
キリンビール入社後、ゼロから育種プログラムを立ち上げ、同社アグリバイオ事業随一の高収益ビジネスモデルを確立。国内外で130品種を商品化。
2004年には、All-America Selectionsが、北米の園芸産業発展に貢献した品種を育成した育種家に贈る「ブリーダーズカップ」の初代受賞者に、世界でただ一人選ばれた。
一般財団法人食品産業センター勤務を経て独立。
農作物・食文化・イノベーション・人材育成・健康の切り口から様々な情報発信やコンサルティングを行っている。
著書に『日本の果物はすごい』(中公新書)、『日本の品種はすごい』(中公新書)、『野菜と果物 すごい品種図鑑』(エクスナレッジ)など。
NPO法人テクノ未来塾理事
「本場の本物」審査専門委員
全国新品種育成者の会育種賞審査員