思い出の小笠原産マンゴーを再現するために 野瀬昭雄さん

先祖が広げていった農園を守りたい

甘みと酸味のバランスが絶妙なマンゴーは「味は諸果の王」とも称されます。特に小笠原産マンゴーは、輸入のものと違い、実を枝に付けたままの状態で完熟させるため、味や甘みが濃厚です。マンゴー栽培に人生の大半を賭けてきた野瀬昭雄さん(82歳)にお話を聞くため、父島の野瀬農園を訪ねました。農園内の広大なジャングルのあちこちに、マンゴーなどの木々が植えられています。「マンゴー作りはそのすべてが難しいといってもいいほど。まだまだ勉強中で、苦労も多いけど、それでも続けてこられたのは先祖が作り上げた農園を守るため。子どもの頃に食べたマンゴーのおいしさや、農園での楽しかった思い出を忘れられないからだね」と野瀬さんは言います。野瀬さんのご先祖が小笠原でマンゴー栽培を始めて今日に至るまでには、歴史に翻弄された大きな苦労があったといいます。

歴史に翻弄された野瀬農園

野瀬さんの4代前のご先祖が、この地にやって来たのは日本人の小笠原への入植が始まった明治9年(1876)のこと。当時は、農業指導でマンゴーをはじめとしたフルーツやコーヒーなどの栽培が奨励されていました。野瀬家のご先祖たちも父島の山野を切り開いて農園を広げていきました。そして昭和9年(1934)、昭雄さんが生まれました。昭雄さんは農園での生活が大好きでしたが、10歳の時に転機が訪れます。太平洋戦争の戦況悪化によって日本人に強制疎開が命ぜられたのです。その後、野瀬さんが父島に戻ってきたのは、昭和43年(1968)に小笠原が日本に返還されてから数年後のこと。28年ぶりに家族を残して単身で野瀬農園に戻ったところ、農園は見渡す限りのジャングルに変貌していました。

歴史に翻弄された野瀬農園

子どもの頃のマンゴーの味を求めて

「思い出の中の農園を取り戻したかった、その情熱だけ。当時は家族に電話をかけるのもひと苦労でね。ラジオの電波も入らなかったし、寂しかったよ。」 彼は明治初期にご先祖が背負ったのと同じ苦難に1人で立ち向かったのです。汗水流して作り上げた施設を台風に吹き飛ばされたり、実ったフルーツを壊滅させられても野瀬さんはくじけませんでした。そして今なお、よりおいしいマンゴーを求めて努力を惜しみません。小笠原産マンゴーの品質は気候や栽培方法はもちろんですが、人々の思いが支えているのかもしれません。現在、父親の片腕として農園を切り盛りする娘のもとみさんは、小笠原コーヒー栽培に情熱を燃やし、観光客も参加できる「コーヒー収穫焙煎体験」が人気をよんでいます。彼女のよりおいしい作物を作るという情熱は父親譲りと言えます。 野瀬さんのマンゴー作りに、求める味に完成はありません。もしもあるとすれば、それは子どもの頃に食べたマンゴーの味ではないか、彼の物静かな声を聞きながら、そう感じました。

子どもの頃のマンゴーの味を求めて

野瀬農園園主

野瀬 昭雄さん/NOSE Akio

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